· 

過剰な自己責任が生みだす悩みやしんどさ・生きづらさ

もう、かなり前から「自己責任」「自己責任論」という言葉が、巷にあふれるようになりました。それは、どちらかと言えば、政治的・社会的文脈の中で語られることが多いかと思います。

 

今回のブログでは、この、「過剰な自己責任論・感」を抱えた「個人」が、現実的にどのような悩みや、生きづらさを生じさせうるのかを考えてみたいと思います。というのも、カウンセリングをするようになってから、この「過剰な自己責任」を抱えることは、かなりの生きづらさや、悩み、しんどさをつくりだしうる、という実感があるからです。

 

「過剰な自己責任」といっても、抽象的なので、私が考えるそれらを、今回は二つほど示しながら書いていきたいと思います。

 

1.「選んだのはあなただからしょうがないよね」:例えば、ある女性が男性と結婚したとします。で、結婚する前は優しくて気づかなかったが、結婚してしばらくしてから、男性が女性に激しい言葉による暴言をあびせるようになったとします(当たり前ですが、性別の部分は様々な入れ替え可能です)。当然女性の心身はリスクにさらされますので、信用できる第三者に相談したり、専門的な相談機関へ行くことなどが大事になりえます。

 

ですが、こういったときに、周囲から「でもさ~、そういう相手を選んだのはあなたなんだからしょうがないよね」と言われたり、子供のころから、そういった方向で教育を受けてくると、自ずと自分でもそういった思考パターンにはまり込んでいく可能性が高くなります(気づかないうちに)。

 

なんとなく、おわかりかと思いますが、この考え方は当人に相当な悩みやきつさ、生きづらさ、場合によっては精神的な病状を生じさせうる可能性があります。

 

被害を受けている当人が、「選んだのは私だからしょうがない」と、特に「気づかないうちに」、その自罰的・自責的な考えに強くからみとられていくと、その責任は「私にある」と、いつの間にか考えるようになっていきます。

 

すると、その事柄やそこから生じてくるさまざまな悩みや生きづらさを、他者に「相談しよう」という意欲が生じなかったり、場合によってはそういった「発想」さえ浮かびません。あるいは、下手に言ったら、「そのように責められるだろう」という不安が強まるので、言えない・相談できない、ということもありえるでしょう。こういった方は、実際に生きてくる中で、そのような責められ方をしてきた「体験の蓄積」があったりします。

 

こうなると、当事者は、かなり厳しい苦境に立たされていきます。この「~を選んだのは、あなただからしょうがない」式の自己責任論が、「過剰」になっていくと、「~」の部分には、なんでも代入が可能になっていきます。思い当たる方は、ゆっくりとご自身をふりかえってみるとよいかもしれません。

 

2.本質的に、「自分の責任」とは言えない事柄にまで「自分が悪い・自分のせいだ」と捉えてしまう・感じてしまう:例えば、会社の上司などが、明らかにパワーハラスメント(以下、パワハラ、と略)をしてきて、自分が心身ともに参ってしまったとします。この場合、責任を負うべきは、パワハラをしている上司です。

 

ですが、「過剰な自己責任」的構えを有していると、そういった状況下であっても「自分が悪いからだ」となっていきます。この場合は、「過剰な自罰感・自責感」、と言い換えてもいいかもしれません。こうなると、パワハラだけでもしんどいのに、さらに「そうなるのは自分が悪いからだ」となっていき、いつの間にか当人は、「2重の苦しみ」を抱えていくことになります。

 

こうなっていくと相当な悩み、しんどさ、生きづらさがでてきます。この他にも、今回は詳細は触れませんが、上記のような構えは、例えば

・本質的に予測や対処が難しい、事故や災害などにあった時、

あるいは、

・基本的に「当人の意志」だけでは、コントロールが難しい問題等に直面した時

 

に、自分を強くしんどくさせてしまう可能性があります。 

 

上記以外にも、この、「過剰な自己責任論」は、当人に様々な負荷をかけていく可能性があります。このように考えていくと、この「過剰な自己責任論」が巷に溢れていくことは危険だな~、と考えます。“ひょっとすると、あてはまるかな~”、と思われる方は、先にも述べましたが、一度ご自身を、ゆっくりと丁寧に見つめなおしてもよいかもしれません。

 

一方、今回のブログのテーマとは逆で、あまりにも「自分が引き受けるべきことを引き受けない」、あるいは「何でも他者や環境のせいにしてしまう」といった、いわば「過剰に他責的・他罰的な心のありかた」も、これはこれで、「実は」最終的にその当人に様々な生きづらさを生じさせうるので、それはそれで何らかの変化や修正を求められることもあります。

 

このあたりに関する記事もいずれ書こうと思っていますが、これまでのブログでそれに触れている記事を幾つか下記に掲載しておきます。

 

「悩みを悩むことの」の意味

「心の問題にとりくむ」ということ

「弱音を吐けない」、という生きづらさ